ゲーマー逃避行ブログ

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生きる意味、その目的


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ふと検索にて「はてなブロガー」さん達の「生きる意味」感を探していた。他の人はどんな結論を下しているんだろうと。

yutoma233.hatenablog.comこの方は、幸せな方の意味を見つけている。何より。

誰だって一度は考え、そして結論の出ないであろう「生きる意味」。心身を消耗する場面が多々ある人ほど、よく考えるかもしれない。

僕も考えたことがあるが、様々な見解を見ても、結局、納得のいく論は出ず「結局、死にたくないから生きてるだけで、それ以上に意味はない」と結論づけた。自分が、というより誰が死んでも世界は、そうそう変わらない。でも、とはいえ死にたくない。

これを、もう少し前向きな言葉で言うならば、明日とりあえず、生きるつもりだから今日生きる。じゃぁ、明日に希望はあるのか、といえばそうもない。まるで借金を返すために借金をする、みたいな理由で味気がないが、一応、それっぽい理由ではないか。後はこれを何十年も繰り返すだけ。

この手の話で思い出すブログがある。この人も生きる意味を探していた。(最後は自殺して終わったブログになっているけど。)

無への道程

自分が一番欲していたもの…
それは、生きる目的や意味だったように思えます。
頑張って生きても死ねば全て終わり。
その虚しさから開放される術を欲していました。
生きるのが無意味でなければ、希望を持てて過酷な労働にもある程度は耐えられる。

色々考えて、もう駄目だと確信しました。
人間は死んだら終わりでその存在意味は皆無に等しい。
その虚しさを背負いながら、幾らでも代わりがいる誇りなんて微塵も持てない
薄給な労働を死ぬまでしろなんて無理な話です。

気持ちも分かる。僕自身、自殺は否定しない。(電車ではやめてくれ)

自分の仕事においては、権限があれば何でも平気でやる人、それこそ人の人生潰しても何にも思わない人、決定権をたてに、他社に損害を与えて潰しても平気でいられる人、本来、自分に責任が及ぶものに関しては他者に移す、そういう人たちが上に立つことが多かった。

これらに振り回され心身を削る。さらに月の残業が100~150時間で、一般平均以下の賃金しかもらえない。こういう人たちにとって「生きる意味」を考えても、冷静に考えると、意味ないな、で終わりそう。他に長期的な目的があれば別として。

ただ、その長期的な目的も自分以外の外的要因で、いともあっさり狂うから、たちが悪い。

家族がいたら変わっていたかと、昔は思っていたが今は思わない。家族持ちはこういう職場で弱かったし、ドロップアウト率が高い。トップ層も未婚者ばかり。僕だって結婚してたら人生詰んでたと思う。

それを踏まえ、生きる意味を自問自答したら「明日生きるため、今日生きる」で決着した。

僕も10数年こういう仕事をしているので、振り回されただけじゃなく、「仕事だから、しょうがない」と言い聞かせてこれら行為に加担したこともあったと思う。「仕事」という言葉はなんと便利だ。合法的、かつ権限があるならば、平気で奪えるだけう奪っていく人たち。

そして、僕はそれ以外の仕事を知らない。辞めて別業界にいったとして、うまくいく可能性の少ない年齢になってしまった。0からまた別の業界で同じ苦労を背負うよりは、覚悟を決めるしかない。

明日考えることを危うい人が、生きる意味が欲しくて、それっぽいものを探そうとすると、とどめをさされる感じがする。

人生観を見出すのは困難だ。他人の見つけた人生観は、自分には合わないし納得できないかもしれない。では、探し方はどうか。そんな無謀な探求を行う人に下記の本をお勧めしたい。僕が学生の時読んで、驚いた本だ。

【荒野へ】という本

追記:映画化されていたことを知った。

【関連ショップリンク】


荒野へ (集英社文庫) [ ジョン・クラカワー ]

 

内容はノンフィクション。
アラスカで遺体となって発見された青年がいた。
彼は、生前、裕福な家庭で育ちスポーツも万能、人柄もよく大学を優秀な成績を卒業し将来を有望視されていた。が、突如、貯金を全て寄付し、名前を変え、単身、過酷な環境へ放浪の旅に出てしまった。この本は、冒険家がその追跡取材を行い、著したもの。

その中でうろ覚えで申し訳ないが「生きるという実感を得ること。自分しか頼れない状況において立ち向かうこと。」という一説があった気がする。彼は餓死する最後まで幸せだったと、言っていた。

もし、生きる意味について答えが出ないのなら、自分はどういう風な最後を迎えたら納得がいくか、を逆算して出して、それを試してみるのがいいかもしれない。生きる意味が分からないなら、明日自分が死んだ時、自分の生き様は客観的に見たら、自分の人生の意味が生まれてくる。もし、それが嫌なら、死を自ら選ぶべきじゃない。

そう考えると、「生き様は死に様」とはよく言ったものだ。

明日、僕が死ぬとしたら「そういう人に使われるだけ使われ、ハードワークせざるを得なくなった人である」というだけの意味ができる。クソすぎる。もう少しましなクソにしたい。

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